2008年4月27日日曜日

2008年度 歴史学研究会大会 近代史部会のご案内

近代史部会大会を開催します。みなさまのご参加をお持ちしております。

歴史学研究会 近代史部会 大会

「分類」のポリティクス

──近代的「人種」の再検討

日時:2008年518日(日)、10:30〜

会場:早稲田大学早稲田キャンパス
[歴史学研究会の大会ページ]をご参照下さい。

報告者:

貴堂嘉之氏「『人種化』の近代とアメリカ合衆国-ソシアビリテの交錯と『国民』の境界-」
松田京子氏「植民地支配下の台湾原住民をめぐる『分類』の思考と統治実践」


コメンテーター:池田忍氏、冨山一郎

司会:佐野智規(近代史部会運営委員)、新井正紀(近代史部会運営委員)

時程:

10:30 趣旨説明
10:40 報告(貴堂嘉之)
11:40 休憩
14:10 報告(松田京子)
15:10 休憩
15:30 コメント(池田忍)
15:50 コメント(冨山一郎)
16:10 休憩
16:20 リプライ
16:40 討論
17:40 終了


【2008年度大会近代史部会主旨文】

「分類」のポリティクス 近代的「人種」の再検討

 今年度の近代史部会では、「人種」をテーマとして取り上げ、「人種」が構築された歴史的・社会的状況とその後の展開を検討することで、「分類」することにどのようなポリティクスがあるのかを論じる。「人種」が身体的特徴を基にした単なる区別ではなく、差別と偏見を拠りどころに「人種」間の優劣を提示するために社会的に構築されたものであることは、これまでも明らかにされてきた。また、「人種」差別的であるとされた表現の禁止や、アメリカにおけるアファーマティブ・アクション廃止の動きに見られるように、今や「人種」差別はなくなりつつあり、差別されてきた者を「優遇」するのは逆差別であるとの主張もなされている。しかしながら、日本、アメリカ、ヨーロッパなどにおいて「敵」あるいは「他者」とみなされた人々への中傷・暴力といった「人種」差別は、新たな言説を伴いつつ、より複雑な形で再生産されている。こうした状況に対し、近代史部会では「人種」をめぐる近年の研究動向を参照し、そこで得られた分析視角を導入することで、これまで行われてきた/現在行われている「分類」の意味自体を批判的に検討することを目指す。
 ホワイトネス・スタディーズは、差別や「人種」問題を「マイノリティ」の側のみに焦点を当てて扱うことの限界性を指摘し、これまで「普遍的」な存在とされ観察の対象となることのなかった「白人」も、実は歴史的・社会的に構築された存在であったことを明らかにしている。ここでは、身体的特徴によって「白人」が定められているのではなく、「白人」という言葉によって示されているものも、地域や時代によって変化することが検証されている。また、「人種」についての学際的な研究では、「人種」が構築・再生産されている背景には、しばしば、ジェンダーや階級といった他の「分類」と相補的関係が存在することが指摘されている。この視角は、帝国と植民地において民族・階級・ジェンダーなどの「分類」が、複雑な権力構造の中で交錯していたことを指摘するポスト・コロニアル研究と共有されるものである。これらの研究においては、「分類」のポリティクスを認識するために、それぞれの「分類」の間の矛盾や共犯関係を検討することの重要性が提示されている。
 以上のような分析視角を基に、様々な近代的「分類」を脱構築する視点を提示するために、近代史部会では「人種」について考察する。近年の部会の問題意識とも関連させながら、以下の3つの論点を提示する。
①「人種」の近代性を検討する。前近代に各地で行われていた「分類」とは比べものにならないほど、体系化、グローバル化、身体化された「人種」概念は、どのような歴史的・社会的状況で必要とされ、また何によって強化されてきたのであろうか。国民国家と植民地という近代的状況で、「人種」の「分類」が行われた意味を問い直していく。
②「人種」と他の「分類」との関係性を論じる。前述したように、「人種」と他の「分類」は相補的関係にあることによって、曖昧で可変的でありながらも政治的に機能してきた。「人種」だけに着目することでは捉えきれない「分類」の権力性を認識することを目指す。
③劣った「人種」として「分類」された人々の反応に焦点を当てる。近年の近代史部会は、民衆あるいは「マイノリティ」とされた人々が権力に対して、どのような抵抗や交渉を展開したかに注目している。「人種」をめぐってもこうしたせめぎ合いが行われた。劣位に置かれた人々が、「われわれ」と「彼ら」の間の境界に対してどのように反応したのか、またその結果がどのようなものであったかを明らかにし、それぞれの人物・集団の反応を支えた論理を分析する。
 貴堂嘉之氏「『人種化』の近代とアメリカ合衆国―ソシアビリテの交錯と『国民』の境界」では、「近代」を読み解く歴史的視座として、「人種」がいかなる可能性を持っているのかを報告していただく。「人種化の時代」として近代を捉え、そこでアメリカ合衆国が果たした歴史的意味を検証する。アメリカ合衆国の国民化は、つねにホワイトネスを核にした人種化と相補的な関係を結びながら展開してきた。この国民化と人種化の歴史を、ソシアビリテ(社会的結合)の観点から、階級、ジェンダー、エスニシティとの相関関係に着目しつつ「国民」とは誰かをめぐる包摂と排除の歴史を分析すると同時に、近代におけるヒトの移動の中心としてのアメリカ合衆国が、この「人種」の近代に果たした世界史的な意味についても検証する。
 松田京子氏「植民地支配下の台湾原住民をめぐる『分類』の思考と統治実践」では、日本による植民地支配下の台湾において、人口数的にも社会的位置といった点からも圧倒的なマイノリティであった台湾原住民に焦点をあてて報告していただく。彼ら・彼女らを「分類」し、支配しようとする思考と実践が、具体的にどのような形で展開され、どのような暴力性を孕んだのかを考察する。
 両氏の報告に対し、池田忍氏と冨山一郎氏からコメントをいただく。多くの方々に参加していただき、活発な議論の場となることを期待する。
(千代崎未央)

[参考文献]
貴堂嘉之「未完の革命と「アメリカ人」の境界―南北戦争の戦後50年論」川島正樹編『アメリカニズムと「人種」』、名古屋大学出版会、2005年。
松田京子『帝国の視線』吉川弘文館、2003年。
ロンダ・シービンガー『女性を弄ぶ博物学 ―リンネはなぜ乳房にこだわったのか?』工作舎、1996年。

2008年4月22日火曜日

修論報告会のお知らせ

近代史部会 修論報告会(5月例会)
 歴史学研究会近代史部会は、昨年度から開催している修論報告会を、今年度も引き続き開催することになりました。現状では、修士課程の2年間(それ以上)の成果である論文を書き終えても、大学内での成果報告会以外で(大学を越えて)検討しあう機会が、それほど多くはありません。そこで本部会は修士論文報告会の場を企画しました。この報告会が、修士論文の成果を報告していただき、修士論文執筆者相互の、また修士論文執筆者と研究者との研究交流の場となることを願っております。
 会員の皆様をはじめ、関心のある多くの方々の参加と活発な討論を期待いたします。本年度の報告者、報告題目、要旨は以下の通りです。

日時:2008年531日(土)、13:00〜17:50
   ※残念なことに、土曜日は研究棟にオートロックがかかってしまいます。可能な限り、時間通りのご来場をお願いいたします。
会場:東京大学駒場キャンパス 18号館2階 院生作業室
報告者:

黄綿史氏
言説としての『女性同性愛』の誕生
1910年代~1930年代の下層階級における『同性愛』関連記事の分析
階級、ジェンダー、民族という視点から1910年~1930年代の新聞・雑誌をもとに、当時の言説上における「女性同性愛」を分析し、女学生と女工との問題化の論理構造の差異を考察する。

大溪太郎氏
ノルウェーにおける政治的スカンディナヴィア主義の展開
1864年から1870年代前半を中心に
1864年のデンマーク-ドイツ戦争を契機とする若手歴史家の議論を中心に、ノルウェーにおける政治的スカンディナヴィア主義の思想的基盤を明らかにしつつ、19世紀後半の右派の結集に果たした政治史上の意義を考察する。

本多光氏
1903年ディック法にみるアメリカ合衆国民兵制度改革
連邦国家アメリカにおける民兵管理権問題
本報告においては、アメリカ合衆国における民兵(militia)について論じる。建国以来各州が独自に管理してきた民兵に対する連邦政府の管理権限を規定した1903年ディック法に焦点を当て、この改革法の性格とその成立過程を検討する。

荻野夏木氏
近代における民衆の「不可視の世界」
明治期を中心に
なぜ人は、占いや祈願、怪異を信じるのか。これらの「不可視の世界」は、近代において「迷信」であるとされ、排撃や啓蒙の対象となった。しかし、民衆の生活や思考の中に「不可視の世界」への信仰と関心は生き続け、やがて「新科学」や文化としても追究されるようになる。その過程を、新聞史料等を通して追っていく。


ポスター:

ご自由にご利用ください。関係個所に掲示いただけましたならば幸いです。

2008年4月21日月曜日

4月の例会のお知らせ

例会を開催します。みなさまのご参加をお持ちしております。

近代史部会 4月例会
日時:2008年426日(土)、13:00〜
会場:早稲田大学文学部キャンパス第一会議室(33−2号館)
報告者:

千葉慶氏「任侠道、沖縄に出会う:「分類」の詩学としての東映任侠映画と詩学の崩壊に関する一考察」
高井万寸美氏「人種の記号化:R・ヴァーグナーの論文『音楽におけるユダヤ性』にみられる表象としての「ユダヤ」」



【報告要旨】

任侠道、沖縄に出会う
──「分類」の詩学としての東映任侠映画と詩学の崩壊に関する一考察──
千葉慶

 一般に歴史学において、「分類」を論じる際には、政治的制度や言説に焦点が当てられるのが常である。本発表では、「分類」がわたしたちの生活に浸透する別の側面──物語として流通/内在化される過程──に着目してみたい。
 東映任侠映画とは「分類」の詩学である。登場人物に「分」を与える「分類」の安定性が、任侠映画世界に秩序を作り出した。その秩序は、任侠道の掟を遵守する〈親分‐子分〉の家父長制的縦軸を基軸としている。そして、そのブーム(1964〜72)は高度経済成長期と重なっている。熱狂的支持者は、社会変動期の混乱に苦悩する主人公たちに、自己(オレは高度経済成長期から疎外されている…)を重ね合わせることで同一化し、象徴秩序による充足感を得たがり、任侠映画の家父長的幻想とミソジニー的な「分類」の詩学を学習していったのである。
 対して、深作欣二は任侠映画が自壊する前に、「分類」の詩学の強度を試す実験を繰り返した。『博徒外人部隊』が興味深いのは、任侠映画の内外からあらかじめ疎外されていた沖縄を欲望の中心として描きこんだ点である。果して、「外部」の導入は、「分類」が正統性を有した絶対的なるものではなく、閉鎖空間の中での作為でしかないことを暴露した。また、「分類」される側から「分類」し返す実践によって、「分類」の正統性は相対化されるに至った。私たちは、ここに「分類」に抗する詩学を見出すことができる。

人種の記号化:
R・ヴァーグナーの論文『音楽におけるユダヤ性』にみられる表象としての「ユダヤ」
高井万寸美

 従来の研究においては、音楽家リヒャルト・ヴァーグナーの反ユダヤ論は国民社会主義との関連で論じられることが多かった。
 これに対して本報告では、ヴァーグナーの言説を当時のドイツにおける反ユダヤ論とのコンテクストのなかで捉え、その位置づけを探る。R・リュールプによれば、ドイツ社会において1870年代以降、「反ユダヤ主義の世界観化」という傾向が強まるのであるが、1850年に発表されたヴァーグナーの反ユダヤ論において、すでに「ユダヤ」の記号化・世界観化という現象が認められるのである。